人が生きるとは、殺生をし続けるということ。仏教の「殺生(せっしょう)」について考える。

昨年の8月から長年の夢だった、ネコを飼っています。そのネコのため、鶏のささみや胸肉を鶏肉店に定期的に行って買ってきます。

ネコのおやつを作っていて考えたこと。
それは、今さらですが、「人が生きるとは、殺生(せっしょう)をし続けるということ」です。

殺生(せっしょう)とは?

殺生とは、仏教用語で、生き物を殺すことを言います。

人は、生き物を殺して食べて生きています。それをしないと生きていけないので仕方がありません。しかし、仏教では「仕方がない」から「殺生が許される」わけではないのです。

人は、この罪、殺生の罪から逃れることは出来ません。

殺生には3つある

殺生には、自殺・他殺・随喜同業(ずいきどうごう)の3種類あります。

自殺は、自分で生き物を殺すこと。

仏教でいう「自殺」は、一般的な、自分自身の命を絶つという意味ではありません。自分で生き物を殺すことです。

他殺は、他人に命じて生き物を殺すこと。

例えば、私達は肉や魚を食べていますが、肉は屠殺業の人が、魚は漁業の人が、殺しています。しかし、だからといって私達に罪がないわけではありません。私達が食べるためにその人達を使って殺しているので、殺生をしたことになるのです。
他殺とは、他人に命じて生き物を殺すこと。

随喜同業(ずいきどうごう)は、生き物を殺すのを見て喜ぶこと。

随喜同業(ずいきどうごう)は、生き物を殺すのを見て喜ぶこと。
これは、例えば、屠殺業の人が殺した生き物を、私達が食べて「美味しい、美味しい」と喜ぶこと。自分が手を下さなくとも、生き物を殺して喜んでいることになり、これもまた人が背負った業なのです。

ネコのために買う鶏肉やキャットフードも私の罪

ネコのおやつは鶏のささ身や胸肉の蒸し煮。1~2週間に一度、近所の鶏肉屋さんへ行くのですが、ある日、はたと「うちのネコは一生のうち、一体何羽の鶏を食べるのだろう」と思いました。

また、当初からねこにあげていたキャットフードがねこの体質に合わず、獣医師から組成の違う他のものにするようアドバイスがあった時。
大袋に大量に5キロ以上残ったキャットフードを捨てられなくてNPOに寄付したのは、そもそも肉食のネコのキャットフードは生き物の肉で出来ているから捨てられなかったんでした。

私が飼っているネコが食べる生き物の殺生も、間接的に私の罪なのです。

ペットの犬・ネコは肉食だから……

肉食のペットを飼っている人は、自分が生きるために食べている生き物の殺生に加え、そのペットが食べている生き物の殺生の罪もあります。
うちはネコだけど、イヌも同じ。

心がもやもやするのは、犬・ネコのエサになっている動物も、ペットみたいに人馴れしているものもいること。Youtubeで、名前を呼ぶと走って来る牛を見たことがあるし。

そして、今、「殺処分ゼロ」を目指している犬・ネコについても。

勝手な人間のせいで捨てられた犬・ネコの命が大切なのは当然ですが、1匹生きるために、鶏や魚が殺されて作られたドッグフード・キャットフードが必要になる。

食用の生き物の命とペットの命はどう違うのか。
「食用の命はいいんです」っていうのは、「美味しく食べてあげるのが供養」みたいに人の事情で勝手に解釈している気がします。

私も、うちのネコにキャットフードをあげて「美味しい?よく食べたね」なんて笑っているのは殺生のうちの「他殺」と「随喜同業(ずいきどうごう)」に当たるのです。

自分が生きるために仕方のない殺生も罪なのに、生きるために必須なわけではなく、自分の楽しみに飼っているペットのための殺生はもっと罪深いものなのだろうと思います。
肉食のペットを飼うって「自分の楽しみのため」で人のエゴ。肉食のペットに限りませんが。

ペットを可愛がってる人や、捨て犬・捨て猫の保護活動をしている人のことを「優しい人だ~」と単純に解釈していた私。

人もそうだけど、肉食のペットも、1匹生かすのに、大量の生き物の命が必要です。捨て犬・捨てネコの保護活動の人はもやもやしないのか、しないとしたらどうやって心の折り合いをつけているのか聞いて見たい。

ネコを飼い始めた時、こんな葛藤は私にはなかった。ヒトは雑食でいろいろ食べてるから肉や魚を食べることはその一部。でも、ネコは肉食だから、毎週鶏肉買いに行って、それがクローズアップしたんだろうなぁ。

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