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No Stupid Questions 「”馬鹿な質問” はない」という考えかた

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外国からの参加者が集まる会議で、的外れな質問をする人がいる。その時の反応が、日本人だけの会議とは違うなぁとつねづね思っていたので書いておきたい。

日本の会議で、的外れや、単なる文句といった質問や意見を言う人がいる。会議の雰囲気で、「あぁまたか…。」と他の参加者もそう思っているのがわかる。中にはあからさまに馬鹿にする態度の参加者も。もちろん大人であるから、発表者は質問した人の顔をつぶさぬように、うまく答えて終わりになるが、気分のいいものではない。

ところが海外の国々の参加者が集まる会議で、同じようなことが起こっても、その場をうまくおさめる発表者の対応は日本の場合と同じであるが、参加者の反応は異なる。通常の質問や意見と同様に淡々とあるいは興味深い様子で聞いているのだ。

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No stupid questions は、「ささいな質問かもしれませんけれど…」「いえいえ、どうぞ、どんな質問でもご遠慮なく質問してください。」といった場合に使われる言葉。これは慣用句だ。けれども、本当に、”馬鹿な質問” はない。

質問するのは、その当人にとって重要だから、わざわざ聞くのだ。

そして、何人か参加者がいれば、同じ質問をしたかった人もいるかもしれないし、それが発表者を含めて気づかなかった視点かもしれない。

それに、”馬鹿な質問” かどうかは、人が主観で判断するが、その主観のうち何割かを占める「常識」は、特に国際色豊かな会議にあっては、とても範囲が小さい可能性がある。つまり、質問した人が馬鹿ではなく、あなた一人が馬鹿だった、ということも大いにありうるのである。

複数の隣国と接している国の人は、「自分とは全く違った考えや視点を持った人がいる」という前提と「だからこそ、心を広くもってまずは聞いてみる」「そしてそれは自分にも資する。」という姿勢が自然とあるのではないか。

日本について言えば、例えば日本に外国人が溶け込みにくいのは、日本の、いわゆる「常識」や、「時々に合わせた期待されるふるまい」における目に見えない共通認識の範囲が、他の国々に比べて広いのだと思う。それは島国のせい、日本だけでしか使われていない日本語のせい、そしてもしかしたら、画一的な日本の学校教育のせいかもしれない。

ヨーロッパの国々のそれが素晴らしくて日本がだめ、というのではなくて、そもそもの環境がそうさせているのだ。

世界のグローバル化と言われている。グローバル化は欧米化ともいえるが、それは、何かひとつの価値観を受け入れる、ということではなく、「いろいろな価値観がある」ということを肝に命じることだと思う。
わからないことがあったら「恥ずかしがらずに聞いてみる」。相手が理解していなかったら「説明してみる」。日本人にとっては面倒で消耗する作業だが、今後は誰でも必要になっていくだろう。

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