怖い話が苦手な方は読まないでください。
昨日の記事では怖くて書けなかったこと。
日の明るいうちに書こうと思います。
ある家の庭で撮った写真に大量の人の顔が写っていた
私が中学生だった時の話です。
元々大地主だったらしい方、もちろん今もある広い家の庭。母がそこの鯉のぼりを撮った写真3枚それぞれに、全体に靄(もや)のような白い帯が入り、その中にたくさんの……10以上の人の顔が写っていたのです。
顔と言っても、骸骨に近い。でも表情があり、どれも苦しそうに口を開けている。普通じゃないのはそれだけではありませんでした。
「おかしいわね、周囲に子どもが何人も遊んでいたのに一人も写っていないわ。」と母。
これ、後に私が大人になってから霊を見た時も、いつも人が歩いている商店街に誰もいなかったことと似ています。
その時の記事はこちら。
母は全く霊を怖がらない
戦争で亡くなった人をたくさん見ているからか、母はこういうものを全く怖がりません。
平気でアルバムに貼ったため、私は怖くて、昼間でもそのアルバムのある部屋に行けなくなってしまいました。
「あれ、変だから、ネガ捨てて。写真はアルバムからとって焼いて。」と私は母に頼み、結局、母はその写真3枚を庭で燃やしました。
昔から住んでいる人に聞く-昔、古戦場か処刑場だった場所
私の家族は当時、東京に父の仕事で来て数年。社宅に住んでいました。当然、周辺の土地の歴史には詳しくありません。
私は母に、「あの場所、元は何だったのかな?あの苦しそうなたくさんの人達の顔、何かあったに違いないよ」と母に言い、調べてもらうことにしました。
そして母が、知り合いの、昔からその辺りに住んでいる方に苦しそうなたくさんの顔が写った写真の話をしたら、その方は思い当たることがあったそう。
しかし、ここで、後日母と話したら、私と母の記憶が食い違います。その方に聞いたその場所の昔の姿を、私は「古戦場」、母は「処刑場」と覚えていて、どちらだったのかははっきりしません。
私の方が若いので、私の「古戦場」の記憶が正しいような気もするのですが。
「古戦場」では、例えば、愛知県の「小牧・長久手の戦い」があった場所で、夜中にときの声や刀・甲冑のぶつかるカッチャンカッチャンといった音を近くにある造形大学の学生さんが今でも聞くという話は聞いたことがあります。
そして、知り合いの方から聞いたのは、その場所が昔何だったかだけではありません。その場所にそういった過去があるせいか、近くの交差点はあまりにも事故が多い。そこでお地蔵様を祀ってあるというのです。
私は自転車でよくその近くの図書館へ行っていたので、交差点にあるその新しいお地蔵様を知っていました。
30年後に聞いた、不可解な事故
この話、なにしろ中学生の時のことなので、長いことすっかり忘れていました。
しかし、約二十年後。転職して2社目の会社で、私の一歳年上で、同じ中学を出ている人がいました。30年後にたまたまその話をその方にしてみたら……。
そうしたら、「そういえば……」と。
その方が子どもの頃、その場所で夏に花火大会をした時のこと。しっかりとした台についているはずのロケット花火が突然倒れ、一人の子どものお腹を花火が直撃。
幸い大事には至らなかったのですが、その方は、大人たちが、おかしいおかしい、と言っていたその不可解な事故をすぐに思い出したそうです。
最後に
先日ふと思い出して、その場所をグーグルマップで探してみました。写真で見ても、普通の住宅街。そのお宅も今でもあります。
私が現在住んでいる場所は、中学生の頃住んでいたところとは違います。
近くに八百屋お七のお墓や、前田家のお邸だった東大があり、昔から人々が住んでいたところ。
近くの図書館には、その土地から出て来た江戸時代の茶碗のかけらが展示されています。
今、自分が住んでいる場所は、昔は何だったのか。気になります……。
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Photo credit: David L. on VisualHunt.com / CC BY-NC-ND