九死に一生・フィリピンで捕虜・鹿児島の祖父と戦争(前半)

今日は8月15日、終戦記念日。

鹿児島県指宿市で医院を営んでいた祖父。その祖父が、軍に召集されて戦争へ行き、九死に一生を得て、フィリピンで捕虜に。そして復員した後の話までを残しておきたいと思います。

前半は、35歳で召集されてからフィリピンへ送られ、捕虜になり、捕虜収容所で過ごすところまでです。

祖父・母・叔母から聞いたこと

私が中学生の時、「祖父母に戦争体験を聞く」という夏休みの宿題(社会)がありました。

私の母方の祖父は、戦争に行った経験があります。

私は東京に住んでいたので、鹿児島の祖父母へお願いのハガキを書いたら、半身不随の祖父の口述を祖母が筆記して便せん3枚に綴られて返事がきました。

その便せんにあったことと、母や叔母から聞いたことを記します。

「この戦争は負けるかも」と祖父は言った

鹿児島で医院を営む祖父に軍から召集令状がきたのは、祖父が35歳の時です。

35歳といえば、今の感覚だったら、まだまだ若く、青年といってもいい人もいるでしょう。

しかし、戦い方が体力勝負だった当時、この年齢の男性に召集令状がきたということは驚きでした。

「すでに中年の自分に召集令状がくる、ということは、この戦争は負けるかもしれない」と祖父は家族に言いました。

若い人が次々と戦死していなくなり、中年にまで徴兵が及んだのです。

しかし当時、それを聞いた祖母は、その意味をよく理解できませんでした。それは、勝つと信じていたから。

当時の新聞・ラジオからの情報は国民を鼓舞するため、日本軍の連戦連勝の間違った戦況を伝えていました。

その頃、祖父の一番下の娘は生まれたばかり。

祖父は、召集場所へと発つ前に、心臓の病気を持っていて体の弱いその子を抱き、やさしくゆすりながら「この子は育たないかもしれない……死になさんな……」と話しかけました。

その子は祖父の出征中に亡くなりました。

「軍医」ではない。軍人への怒り

私がこどものころ、「祖父が医師で、戦争に行った」と知り、思わず母に「軍医ってこと?」とたずねました。

そうしたら、母の顔がみるみる怒りで変わり、「医師として戦争にとられたのであり、職業軍人ではない」と激しく否定されました。

戦争中は、軍人が幅をきかせていました。そして、終戦。

国を守り、戦うのが仕事だった軍の大きな判断の間違いのせいで、国は守られず、戦いには負け、民間人は苦しい思いをしたのだ。自分の父は、軍人ではない。

そんな怒りだったのでしょうか。

フィリピンで九死に一生

フィリピンに送られた祖父は、ある日、移動の車に乗り遅れます。仕方なく、徒歩で移動先へ。

そして着いたところで、先に出発した車が爆撃され、車に乗っていた人全員が亡くなったことを知ります。

乗り遅れたおかげで、九死に一生を得た瞬間でした。

戦うのではなく、逃げる

フィリピンでは戦っていたのではなく、ジャングルの中を米軍の攻撃から逃げる日々。軍からの食糧の補給はない。食べ物がないため、野戦病院の同僚は次々と栄養失調で倒れていきます。

祖父は、栄養失調で動けない看護婦(当時の呼称)さんを背負って逃げました。

しかし、その看護婦さんが「もう、私はだめです。先生、ここにおろして、置いて行ってください」と祖父に頼みます。

地面におろすと、その顔や体にワッとハエがたかる。しかしもう、彼女はそのハエをはらう力もなく、そのまま亡くなりました。

死体から靴をとる

熱帯のジャングルの中、靴も傷みます。しかし食べ物の補給もないのですから当然靴の替えもありません。転がっている兵士の死体のまだ使えそうな靴をとり、履き替えて、逃げ続けました。

疲れ果てて、川辺で倒れて寝てしまったこともあります。目が覚めたら、手が何かにあたる。祖父は、死体の山の横で寝ていたのでした。

捕虜になり、収容所で過ごす

そして、終戦をむかえ、アメリカ軍の捕虜になり、収容所へ。

特徴のある外見に助けられる

戦争中ほどではないにしろ、収容所でも日本兵たちは空腹でした。そして、捕虜の日本兵が、フィリピンの現地の人の持つ畑から食べ物を盗む事件が何度も起きます。

米軍に訴えがいくと、現地の目撃者の前を日本兵が一列で歩かされます。そして、現地の人が「盗んだのはこいつだ」と指さすと、指さされた日本人はその場で銃殺。

私達日本人は、外国人から見ると、互いによく似ています。ですから、日本兵の捕虜たちは皆、間違って指さされないかとびくびくしていました。

しかし祖父は、当時にしては170cmと背が高い。色白で、目が大きくてわし鼻。ほかの人とは違う目立った特徴があったので、助かったと言っていました。

通訳をつとめる

祖父は英語が話せたので、捕虜収容所では通訳をつとめました。そこでアメリカ軍人とも話をするように。タバコをもらって自分は吸わないので同僚にあげたりしました。

こんな細かいところまで地図に……と絶望

軍の事務所には、日本の各地域の地図がありました。祖父の出身が鹿児島県だというと、アメリカ兵が、地図を見せて、家はどこかと尋ねます。

その地図をみて祖父は驚きます。そこには、家の近所にある、細い細い路地まで描かれていたから。

「アメリカ軍はこんな詳しい地図を持っている。もう家族は生きていないのではないか?」と祖父を絶望が襲いました。祖父の家は鹿児島県指宿市、海まで徒歩3分のかなりの田舎。それでも、母の記憶では、家に米軍に攻撃された弾の跡があったそうです。

「カゴシマ」と「ヒロシマ」

別のアメリカ兵が、祖父に出身地を尋ねたことがありました。

「カゴシマ」だと答えると、相手の兵士の顔が曇り、祖父を気の毒そうに見て、「ご家族は、もしかしたら亡くなってるかも知れない。でもどうか、気を落とさないように」と慰めました。

帰国してから祖父はヒロシマに原爆が落とされたことを知ります。そして、フィリピンであのアメリカ兵が、おそらくは祖父が伝えた自分の故郷「カゴシマ」を「ヒロシマ」と聞き間違えたのだろう、と気づきます。

後半は、戦争中の残された家族と、戦後についてです。

Photo by Jorge Vasconez on Unsplash

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